花岡パトリオット
故郷花岡を愛する社会人、仮ピーの、折り紙、遊戯王、音楽、アニメ、漫画などの趣味を紹介していくブログです。 同じ趣味を持つ方々との繋がりを増やしていくことが一番の目的です。 どうぞごゆっくり。
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第二回ガチで一人議論「本当に文化の多様性は大切なのか」
はい、というわけで実は2回目の一人議論。
第1回目は羽奈日さん記事で記事数100突破記念記事だったんだけど。

今回はべつに記念とかそんなんじゃなくて、普段から疑問に思っていることを一人で議論していこうかな。
これからもこのシリーズあると思うけど付き合ってね。

それでは議論を始める。

議題「本当に文化の多様性は大切なのか」


文化の多様性の大切さは昔から謳われてきたとおり。
地元の伝統行事には進んで参加しましょう、なんてことは、小学校の教科書にも書いてある。
一般的に、文化の多様性を保つことは大切なこととして謳われているのだ。
それは間違いないと思う。

それを踏まえた上で、次の絵を見てもらおう。
kanibarizumu_convert_20111212234709.jpg
これはカニバリズムといって、いわゆる「食人文化」だ。

人の肉を一つの食料として扱う文化。
描かれているのはブラジル人だけど、当時の入植者の略奪を正当化するためにねつ造された物、先住民は食人文化を持っているから危険だから殺した、と言う風な口上をするために描かれた物。
ようするにブラジルの先住民は人の肉なんて食べないから誤解しないでくれ。
ブラジル先住民の肉料理はおいしいです(食ったことないけど)。

この絵を見て、おそらく多くの人は不愉快に感じると思う。
気持ち悪いと感じると思う。

そう、その時点で俺たちは既に文化の多様性の大切さを否定してしまっているのです!

こいつはびっくりだ。

とはいえ気持ち悪いと感じるのは当然と言えば当然で、それは俺たちが人の肉を食ったことがないからです。

そしてそれはなぜでしょうか。

自分以外の人が誰も人の肉を食べていないからじゃないでしょうか。

逆に、自分以外の他の人が皆、人の肉を日常的に食べていたとしたら、自分もその肉を一緒に食べれるでしょうか。

いや……、無理だな。

そういえば芥川龍之介の「カッパ」っていう作品の中で、カッパ達がカッパのハムを食べる様子を見て、主人公が不快感のあまり嘔吐するシーンがあったな。
中学校の頃読んだヤツだからはっきり覚えてないけど。

しかし世界は広くて、ブラジルから場所を飛んで東ヨーロッパ。
定期的に村人や旅行者が失踪する事件が相次ぐ地域があった。
ずいぶん田舎だった物だから単なる失踪事件として何百年も、半ばたま誰かが失踪することが普通であるくらいに放っておかれた地域があった。

ふたを開けてみればその失踪事件、森の奥地に住まう狩猟民族の生命活動の一環だった。

なんてことが実際にあった話。

実は今も……(おっといけね、消されるところだった)。


当然それは許されない、しかし文化の多様性を重んじるなら、それを文化として受け入れなくてはならない。

それが殺人を孕む物であっても、それを否定する大多数の文化に、少数の文化を否定する権利があるのかどうか。
はなはだ疑問ですね。

しかし「食人文化」が「埋葬」としてとらえられるとしたらどうでしょうか。

先ほどの話のように、「誘拐した人を殺して食べる」のではなく、「死んだ肉親の肉はその家族が食べる」という埋葬の文化だとしたら、受け入れてしまいそうな自分がいませんか?

モンゴルにある鳥葬、古代エジプトのミイラ作り、日本にだって、王様が死ぬ度に奴隷を生き埋めにし続けた、今ではとてもできないような埋葬の仕方があったわけです。

しかしこうしてみると、どこの文化にも共通して「死者の埋葬」の文化は共通してあったわけです。
これは非常に興味深いことだと言えます。

つまり、文化によって認められる行為と認められない行為はある一方で、共通して理解できる文化というのは少なからず存在すると言うことです。

カニバリズムがそのほか大多数の文化によって否定され、淘汰されていくように、その文化の集約が進み続けると、いつかは世界中の誰にも受け入れられる文化が誕生し、統一されるときが来るのでしょうか。

現在、言語はみるみるうちに世界から消失していると言います。
いつから日本人が日常的に歌を詠まなくなったのか、古文を読むことに苦労することになったのか。
考えてみれば容易に実感できますね。

古文なんて物は教育制度がキッチリしているからこそ伝えられているわけであって。

それがないアフリカの民族にしてみればどうでしょう。
海外企業の流入によって伝えられた英語によって、現地の人々は民族の言葉を失い、みるみるうちに生活は近代化していっているのです。

それも、文化の集約の兆しと十分にとらえることができますよね。


こうして完全に世界中の文化が完全に集約した頃、宗教問題も解決して、誰もが同じ宗教を信仰し、誰もが同じ言葉を話すことになるのでしょうか。

世界中どこに行っても誰とでも話ができ、どこの文化も理解できる世界、争いのない世界。

一見いいことづくめのような、多様性のない世界。

それを創り上げるためにはやはり、淘汰される文化を見捨てるしかないのでしょうか。


ともすればやはり、俺たちに必要なのは文化の多様性。
それは間違いないのです。

しかし、俺たちにとって文化の多様性が大切なのは分かっても、その理由が漠然としすぎてとらえ辛いのも事実です。

文化の多様性の大切さを唱える一方で、その真意は「互いに互いを理解し合おう」という簡単な教訓にすり替わっているのではないでしょうか。

しかしそれが文化の多様性を意識する中で近道となるのは間違いありません。

俺たちにある問題は「多様性」の中に存在すべき文化を、無意識のうちに選別してしまう差別意識にあると思うのです。

だからどこの文化もどこの言葉もどこの宗教も理解し合えることができたなら、文化は集約を始めることはなかった。
集約が始まっていると言うことは、というか世界中の宗教紛争を見てみれば分かるとおり、まだまだ互いの文化の理解にはほど遠いっていうわけです。

その距離を少しでも縮めるために!
そら!
人間のハムだ!
食ってみろ、うまいぞ~!


いや、無理……。


所詮多文化主義なんてそんなもんです。
限界は目に見えるところまで来ています。






これは……、あれだな。

センター試験の評論に出してもいいレベル。
(自画自賛)


俺理系だけど大学行ったらこれで論文を1本書くか……。
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コメント
コメント
No title
確かに仮さんの言うことには
けっこう考えさせられる
2011/12/13(火) 21:23:36 | URL | よし #- [ 編集 ]
No title
教養で文系の授業にも出れるよ。
2011/12/13(火) 03:49:43 | URL | 姉 #- [ 編集 ]
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